上野は日本初が豊富な街!!日本はじめて物語
上野は日本初が豊富な街!あまり知られてない日本初の情報をまとめました。これを知ってれば、上野観光が10倍楽しめます♪
  • 春の上野恩賜公園

    上野恩賜公園
    明治維新後、明治2年(1869年)上野の山は上野の寛永寺は戊辰戦争で全焼し、荒れ果てていました。東京都の管理下に置かれて、木を切り倒して茶畑や桑畑にしたり、不忍池を埋めて水田にする、また文部省や陸軍省など各省の争奪合戦の地となっていました。文部省としてはここに医学校と病院を建てる計画を開始していました。
    ところが、ちょうどその頃、上野を訪れる機会のあったオランダの医師ボードウィンが、まだ十分に残っていた上野の山の自然を見て、いくら学校や病院のためとはいえ、これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだ、と進言して文部省の計画が中止となりました。
    その後はすぐに上野公園ができたかいうとそうではありません。明治5年(1872年)山縣有朋と陸軍省が、上野の山に死んだ兵隊を埋葬したいと東京府に申し入れました。その結果、学校と兵隊の墓地を作る計画を進みはじめました。これに決着をつけたのは当時内務卿だった大久保利通でした。当時日本に公園という概念がなかったのですが、欧米を視察してきた大久保利通は岩倉具視らは欧米と肩を並べるには公園が必要だと考えたのです。徳川幕府にとっては上野は象徴的な存在だったこともあり、明治政府は近代化のシンボルにしようとしました。明治6年(1873年)大政官達第16号により東京府公園に指定され、公園制定されました。その後、東京府の財源不足の問題がありなかなか計画が進みませんでしたが、ようやく明治9年(1876年)に開園し、上野恩賜公園は日本で最も古い公園となりました。
  • 上野動物園入口

    恩賜上野動物園
    恩賜上野動物園は上野恩賜公園内にある動物園で通称上野動物園です。明治15年(1882年)日本で初めての動物園となりました。
    総面積14.2haの広大な園内では約400種3,000点の動物を飼育しており、入園者数も日本一の動物園です。
    当初は面積1ha,飼育動物数400点ほどの小規模なもので日本産の動物が主体でしたが,田中芳男らの尽力で,世界各地からゾウ,クマ、ライオン,キリンなどを寄贈されたり購入したりして発展,1924年皇太子の結婚を記念して宮内省から当時の東京市に下賜されました。
  • パンダを飼育

    笹を食べるシンシン

    パンダを飼育
    上野動物園の人気が絶頂となったのは昭和47年(1972年)中国からの貸与を受け日本で始めてジャイアントパンダのカンカンとランランの飼育を行いました。以来30数年にわたり、パンダの飼育を行い繁殖にも成功しましたが、2008年にオスのリンリンが死亡しました。その後パンダは不在で、2011年に中国から2頭のパンダが来園してリーリーとシンシンと名付けられました。来春こそは2世の誕生を待ちわびています。
    ところで、パンダはなぜ竹が主食なのでしょうか。同じ仲間である熊は竹を食べないため、生き延びるためにも竹が主食になったと言われています。
  • 動物園「園長」の役職

    現在のアジアゾウ

    動物園「園長」の役職
    昭和11年(1936年)に黒ヒョウが逃げ出した事件がありました。 大きな被害はなく、無事保護されました。動物園の責任の問題が取り上げられました。 当時の動物園の責任者は「主任技術師」という肩書でしたが、この事件をきっかけに、日本初の「園長」の役職が誕生しました。初代園長の古賀 忠道は1903年12月4日、佐賀県生まれ「動物園は平和なり」と名言を残した人物です。
    補足ですが、そのときの事件により第二次世界大戦末期に万一爆弾が落ちて動物たちが逃げ出したら大きな事件となると予想れたため大型動物たちを薬殺することになりました。ライオンやヒョウを薬殺させ、ゾウにも毒の餌を食べさせようとしましたが、ゾウは頭がいいので食べませんでした。そこで衰弱死させたことは、かわいそうなぞうとして有名な話です。
  • 現在のモノレール

    モノレール
    現在も上野動物園内を走っているモノレールですが、日本で最初に開業したモノレールです。
    上野動物園の東園と西園(0.3km、所要時間約1分半)を結ぶモノレールは正式名称を上野懸垂線といいます。
    1957年(昭和32年)当時は路面電車が一般的でしたが、自動車の普及とともに交通問題を懸念した東京都が実験するために造られました。その後上野動物園に訪れた子どもたちを中心に親しまれ、現在の車両は4代目となっております。


  • 地下鉄

    銀座線の旧車両

    地下鉄
    旅客用の地下鉄では1927年(昭和2年)に東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の浅草駅 - 上野駅間(約2.2 km)で開通しました。浅草駅 - 上野駅間の駅は現在と同じく稲荷町と田原町の二駅があり、運賃は10銭でした。当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、日本だけでなく、アジア・オセアニア地域で初めての地下鉄となりました。その後,1934年(昭和9年)に新橋まで延長され,さらに1939年(昭和14年)に渋谷まで開通して現在に至っています。

  • 日本発祥のカツサンド

    カツサンド
    とんかつ屋の激戦区で知られる上野は、美食家の間でもレベルが高いことで知られています。その中でも1930年(昭和5年)創業のとんかつ専門店・井泉のカツサンドは「お箸できれるやわらかいとんかつ」といったキャッチフレーズで長年地元で愛されています。
    1935年(昭和10年)に井泉の女将であった石坂登喜さんが考案されたものだそうです。同じくカツサンドで有名な「まい泉」は井泉から独立した店ということです。
  • 喫茶店

    「可否茶館」跡地

    喫茶店
    日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初であると考えられているそうです。その後商品として流通して1888年(明治21)年4月13日に、日本最初の喫茶店「可否茶館」が上野に誕生したのです。当時、コーヒーは一杯一銭五厘といった価格で、一品料理、パン、カステラなども提供したようです。この可否茶館は残念ながら経営的に成り立たず、赤字のため4年後に閉鎖されてしまったそうです。
    現在は、湯島駅や上野広小路から5分程度の中央通り沿いにある、三洋電気東京ビルの入り口近くに「日本最初の喫茶店発祥の地」として2008年(平成20年)4月13日にモニュメントが建てられています。あまり知られてませんが、4月13日は「喫茶店の日」となっています。ひっそりと立っているので、注意しないと通り過ぎてしまうかもしれませんので、お気をつけて!

  • ラジオ体操

    松葉公園にある、台東区が設置した50周年記念碑

    ラジオ体操
    1928年(昭和3年)天皇陛下ご即位を記念し国民の健康増進を目的として郵政省(当時逓信省)簡易保険局を中心に日本放送協会、文部省等の協力の下に旧ラジオ体操第一を制定しました。翌年には全国放送となりましたが、その後第二次世界大戦の影響を受けて、昭和22年8月31日に一時中断されました。戦後の復興と共に、ラジオ体操は再会され、昭和27年6月28日に中継放送再開の第一声を、上野駅近くの松葉公園から放送しました。
    また、上野公園は、ラジオ体操ひろばとしても多くの人に親しまれており、ラジオ体操制定50年を記念して記念碑が建立されました。
  • 柔道

    永昌寺にある「柔道発祥の地」石碑

    柔道
    東上野にある稲荷町交差点近くの永昌寺が、「柔道」発祥の地となります。「講道館柔道発祥之地」と 刻まれた石碑が、その脇に由来を記した石柱があります。
    1882(明治15)年、 講道館柔道の創始者である嘉納治五郎(1860~1938)が友人や門弟とともに稽古をはじめたところが, 当下谷永昌寺の書院でした。境内の「講道館柔道発祥之地」と刻む自然石の記念碑は、1968(昭和43)年10月、嘉納治五郎 没後30周年を記念し, 講道館が建立したといいます。
    永昌寺は小説「姿三四郎」に登場する隆昌寺のモデルでもあります。
  • 寄席

    下谷神社にある「寄席発祥の地」石碑

    寄席
    東上野にある、永昌寺近くの下谷神社が「寄席」の発祥地となります。1798(寛政10)年、馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(初代 山生亭可楽)が「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ柳稲荷(現下谷神社)の境内で初めて寄席興行を行いました。1998年(平成10年)に寄席発祥200年を記念して記念石碑を建立しました。山生亭可楽は、後に三笑亭可楽に改名したそうです。
  • 市電(路面電車)

    昔の市電イメージ

    市電(路面電車)
    実は市電も上野発祥の地です。正式に営業を開始したのは1895年(明治28年)京都に市電が最初でしたが、その5年前には上野でも走らせていました。1895年(明治23年)に上野公園で開催された、第3会内国勧業博覧会に東京電燈(現 東京電力)がデモンストレーションのために走らせていました。走行距離は240間(約440m)程の短い距離でした。
    電動機はアメリカのスプレーグ会社製15馬力で、電車の組立は芝新堀河岸にあった三吉電機で行われたそうです。博覧会閉会後この電車は三吉電機が保管し、明治32年1月に開業した大師電鉄(現京浜急行)が譲受けたということです。
  • 内国勧業博覧会

    開会式の様子の錦絵

    内国勧業博覧会
    内国勧業博覧会は明治時代に5回開催され、その内第1回目1877年(明治10年)を皮切りに~第3回目1890年(明治23年)まで上野公園で行われました。内国勧業博覧会とは日本国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的とした、政府主導の博覧会です。大久保利通が中心となり、上記の目的の他にも欧米へ近代的な国家であることをアピールするために開催されました。
  • 駅伝

    不忍池にある「駅伝発祥の地」の碑

    駅伝
    駅伝は日本発祥として知られていますが、1917年(大正6年)に東京奠都50周年を記念して、「東海道駅伝徒歩競走」が行われました。京都の三条大橋を出発し、東京の上野不忍池までの23区間、約510kmを関東組と関西組の2チーム対抗で競われました。昼夜問わず3日間走り続け、結果関東組が勝ちました。三条大橋と不忍池のほとりにはそれぞれ「駅伝発祥の地」の碑が現存しています。
  • 競輪

    現在の不忍池

    競輪
    競輪も日本発祥と知られています。自転車は19世紀初頭にヨーロッパで生まれ、日本へは江戸時代末期に外国人から伝えられました。1868年(明治元年)には国産の自転車が造られるようになり、普及していきました。1898年(明治31年)11月6日に日本で初めての競輪(当時は自転車競走)は、不忍池を周るコースで行われました。当時、自転車はまだ高価なものだったため、貴族や財閥から支援を受けて走っていました。
  • ソメイヨシノ

    ソメイヨシノ満開の上野恩賜公園

    ソメイヨシノ
    日本の代表的な桜であるソメイヨシノは、上野恩賜公園に現存する1本を原木として全国に広がったと言われています。ソメイヨシノは江戸時代末期に豊島区駒込の植木屋が江戸彼岸桜と大島桜を交配して作ったものです。東京帝室博物館(現 東京国立博物館)職員の藤野寄命(ふじのよりなが)が1900年(明治33年)にソメイヨシノと命名しました。

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